同級生対談!佛田洋さん(特撮監督)X三池敏夫さん(特撮美術監督)

様々な業界で活躍されている熊大附属中学出身OBOGをご紹介していくコーナーです! 記念すべき第一回は、今年の東京同窓会の幹事学年S52年卒業の佛田洋さん&三池敏夫さんです!

小学校から幼馴染のお二人は、今も「特撮」という同じ業界で活躍中。男の子だったらだれもが一度はのめり込む、「仮面ライダーシリーズ」やゴレンジャーのような「スーパー戦隊シリーズ」を長年手掛け、最近では「のぼうの城」や「進撃の巨人」「海難1890」といった話題の映画に数多く関わる、まさに業界の第一人者です。ちなみにWikipediaによると、「特撮(とくさつ)は、特殊撮影技術(SFX)を指す略称、あるいはSFXが多用された映画やテレビ番組などを指す総称」。字義通りちょっと「特殊」な仕事でもあり、興味深い話が盛りだくさんで、長時間のインタビューとなってしまいました。

株式会社特撮研究所 代表取締役社長

佛田 洋(ぶつだひろし) 

1961年熊本県生まれ 特撮監督矢島信男氏に師事し1990年『地球戦隊ファイブマン』で特撮監督デビュー。その後長年にわたり東映の『スーパー戦隊シリーズ』『平成仮面ライダーシリーズ』を担当。劇場用映画の代表作としては『男たちの大和/YAMATO』(2005年)『ハッピーフライト』(2008年)等がある。近作は『手裏剣戦隊ニンニンジャー』(2015年)『仮面ライダーゴースト』(2015年)『海難1890』(2015年) 

株式会社特撮研究所 取締役/美術・特撮監督

三池 敏夫(みいけとしお)

1961年、熊本県出身。1984年、九州大学工学部卒業、株式会社特撮研究所入社。『兄弟拳バイクロッサー』(1985年)『超人機メタルダー』(1987年)『仮面ライダーBLACK RX』(1988年)などに参加後、フリーとなる。主な参加作品は『ガンヘッド』(1989年)『帝都大戦』(1989年)『ゴジラvsキングギドラ』(1991年)『ガメラ 大怪獣空中決戦』(1995年)『戦国自衛隊1549』(2005年)『男たちの大和 / YAMATO』(2005年)『日本沈没』(2006年)『のぼうの城』(2012年)など。『ウルトラマンサーガ』(2012年)では特技監督を担当。

具体的には、どのようなお仕事なんでしょう?

佛田特撮監督というのは、いわば全体を指揮する仕事。企画書をもとに絵コンテを描いて、現場で撮影をする……「よーい、スタート!」と言うだけですけど(笑)。戦隊モノの場合は、ロボットがいっぱい登場するので、撮影が進んで来ると、次々と新しいロボットの絵コンテを書くことも仕事として出てきます。
作品としては、毎週放送のテレビ番組がメイン。主に東映作品(仮面ライダー、戦隊シリーズ、『男たちの大和/YAMATO』他多数)を手掛けています。

三池特撮美術監督というのは、ひと言でいうとミニチュアのセットを作る仕事のリーダー。図面を描いて、現場ではミニチュアを飾ったり舞台装置を作ったりしています。美術部は最小で2,3人、東宝の怪獣映画の場合は7,8人くらいのチームで構成されています。ただ、ミニチュア製作は外注することも多いので、実際にはひと作品で数十〜100人くらいが関わっている事も珍しくありません。

現在はどのような作品に取り組んでいらっしゃいますか?

佛田10月から始まるテレビ番組『仮面ライダーゴースト』、12月から公開の日本・トルコ合作映画『海難1890』に取り組んでいます。

三池僕の最新作は、現在上映中の『進撃の巨人』。本作は、前編・後編とあわせた2部作で、最先端技術を使いながらも僕らが好きだったミニチュアを使った特撮を駆使しています。技術的にも面白いところがいっぱいあるので、是非ご覧になっていただきたいです。エンドロールに何百人という関係者が出てきますから、ホントすごい大作映画ですよ。
他には、来年夏に公開される「ゴジラ」映画の新作があります。昨年、米国版の「GODZILLA」が公開されましたが、それと比べると日本版は予算も時間も限られているので、比べられると、ちょっと辛いものがあります。もちろん、そもそも怪獣が好きでこの仕事をしているようなものですから、「ゴジラ」に関われるというのはすごく嬉しいんですけどね(笑)。

そもそも特撮業界に入られたきっかけは?

佛田小さい時から怪獣が好きだったというのが一番。だから、三池くんが特撮の世界に進むって聞いて、じゃあ僕も行ってみようかな、と(笑)。
そもそも、モノづくりには興味があった。で、最初は画家になりたいと思ったこともあったんだけど、周囲から「画家なんて無理でしょ」と言われたりして、だったら建築家になりたい、と。大学進学時も建築学科を希望したんですけど、共通一次試験の点数が良くなくてね。「建築学科は無理だから浪人するかランクを落とせ」と言われた。僕も浪人するのは嫌だったから、とりあえずは入れるところということで、資源工学科に志望を変えたんです。
資源工学科というのは、かつては採鉱学科といって石炭を掘る勉強をするところだった。だから僕も地下資源のことや、地熱とか海外の石炭とかの勉強をしていました。今の仕事とは全く関係ないけどね。

三池僕のきっかけは、小さい時の原体験なんです。当時テレビとか映画とか巷に怪獣があふれている怪獣ブームという時代があって、僕もその世界にどっぷりつかっていた。それがそのまま大人になっちゃったということなんですよ。(笑)
大学を卒業して、二ヶ月たったくらいかな。特撮研究所の現場にアルバイトとして入りました。下見の際は、附中、熊高の同級生で東工大に行った中島裕文くんの家に居候させてもらって、翌年には雪が谷大塚の風呂無し、共同キッチン、共同便所という4畳半一間のアパートに引っ越して、佛田くんと2人で住んでいました。押入れの襖をはずして真ん中に立てて仕切りにして。(笑)
もちろん特撮研究所に入るというのも、簡単ではありませんでした。なんのツテもコネもありませんからね。テレビのクレジットで知っていた東映の特撮番組のプロデューサーの名前だけを頼りに、電話帳片手に1件1件電話をかけ続けて、ようやく願いが叶ったんです。

佛田僕らとしては、ようやく夢にたどり着いたと思っていたんですけど、周りは「せっかく九大を出たのに、わざわざそんな所に入らなくても……。他にもっといい仕事があるんじゃない?」とか言っていたよね(笑)。

三池そう、皆に反対された。先生、親、先輩、友達。そのうえ、目指していた業界の人までも反対。もう自分たち以外「みんな反対」という状況でした(笑)。

それをはね除けて続けてきたわけですから、今の仕事に不満は一切ない?

佛田もうちょっと休みが欲しいかな(笑)。

三池僕は大満足ですよ。3年前に、「エヴァンゲリオン」の監督で僕らと同世代の庵野秀明さんが、東京都現代美術館で「特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」という展覧会を開催して、僕らが子供のころからずっと見てきたミニチュアやデザイン画などの資料を展示したんです。それ以降、最先端のCGに比べて古臭い印象だったミニチュアに対しての見方がプラスのイメージに変わり、その価値が見直されつつある。「特撮博物館」は、東京に始まり松山、長岡、名古屋と続き、今年の4月には熊本市現代美術館でフィナーレを迎えました。僕も庵野さん、樋口真嗣さんと共に講演をさせていただいたのですが、この数年で格段に日本特撮の味方が増えた感じがしました。だから熊本での「特撮博物館」が人生のピークかなと(笑)。そして実は、最初のお披露目の講演会の時に、担任だった高崎國正先生が来てくれたんです。小中高の先生では唯一、高崎先生だけ年賀状のやりとりがあって、先生自身も今でも現役で彫刻を作られている。そんな関係もあって、講演会にまで足を運んでくださったんでしょうけど、なんだかえらい感激されて……。小さい頃から憧れた仕事に就いて、故郷に錦を飾れて、本当に良かったと思いましたね。

佛田そうだね。あれだけ周囲から「辞めろ、辞めろ」と言われながらも、なんとか続けてきたからこそです。

三池戦隊シリーズはもう40年目に入るんですけど、そのうち佛田作品が26本。つまり、佛田くんは26年間連続して特撮監督をやっているんです。よくネタが続くなぁと。普通5年くらいやると飽きるし、そもそもアイデアが出てこない。それを26年ですからね。「すごい」のひと言ですよね。

日頃アイデアを練るために、どういうことをなさっていますか?

佛田特撮とは全然関係のない映画を見にいくとか、トイザらスに行って変形ロボットじゃないおもちゃを見たりとか。(笑)ウチにいて積み木で遊んだりしているときにも、アイデアが出ることもありますよ。

三池最近は、ほとんどの言葉を企業が商標として登録しちゃってるんで、ネーミングひとつとっても新鮮なものを生み出すのは難儀です。特に戦隊モノは苦しいですね。もうネタがつきてる(笑)だからといって適当に決めるわけにもいかないんで、なんとかアイデアをひねり出す人たちがいるわけです。

最近は海外にも行かれるとか……。

佛田フランスの“オタク”のイベントに招待されて。日本の戦隊シリーズは海外でも放映されているんで、戦隊もののコスプレをしているフランス人もたくさんいるんです。その中には入っていって、サインをしたり質疑応答をしたりしてきました。
戦隊モノを海外で放映する場合、韓国ではそのままなんですが、欧米では一部撮り直すんです。僕達の作っている特撮の部分と変身した後のアクションはそのまま使うんですが、生身の日本人が演じているシーンは、外国人の役者さんで撮影しなおす。だから、いろんな人種の戦隊ヒーローが登場したりして、それはそれでなかなかおもしろいんです。

三池今や戦隊ヒーローは世界ヒーローになっていて、つまりは佛田くんの撮った特撮を、世界中の子どもたちが見ている。いやいや、大人たちだってたくさん見ているわけだから、ホントすごい。日本では毎年5,6人の戦隊ヒーローを誕生させ、それを40年も続けてきたわけですから、もう大変な数量です。だからこそ、世界の人々が戦隊ヒーローや怪獣、そして特撮ものというと、日本に目を向けるのは当然のことだと思います。
欧米人だって、子どもの頃に見たインパクトある映像は、ずっと心に焼き付いて残っている。だからこそ、いまだに日本の怪獣ファンや戦隊ヒーローファンが、世界中にいるんです。

佛田ちなみに、今は外国でも「怪獣」のことを”KAIJU”って言うんです。「仮面ライダー」も、以前は”Masked Rider”だったのが、今では”KAMEN RIDER”と、日本語のまま呼ばれています。さらに最近は、”TOKUSATSU”という言葉も浸透してきています。まさに今、日本の強みが広く認知され、その評価がすでに定着さえしつつある、ということではないかと思っています。

附属中の思い出についてお話しください。お二人とも美術部だったとか。

三池はい。僕はいわゆる芸術的な絵画とか彫刻とかいうより、むしろ変わった物が好きというか……。例えば、折り紙で伊勢海老やムカデを作ったりして、とにかく人を面白がらせることに興味がありました。
美術部の顧問というのが、さっきも話に出てきた高崎國正先生だったんです。先生は、授業や生活面では非常に厳しかったんですが、部活に関しては自由にやらせてくれていたので、僕自身は割と好き放題にいろんなことをやっていた記憶があります。

佛田確かに僕も美術部だったけど、当時のことはあまり憶えてないなぁ(笑)。もともと自分の手でモノを作るということが好きだったんで、美術部にも入ったんでしょう。もちろん絵も描くのも、塑像を作ったりするのも、両方とも好きでしたね。

窪田先輩からみて中学時代のお二人の印象は?

窪田お誕生日会で、バルタン星人とかウルトラマンに出てくる怪獣がいっぱい描かれた絵をもらった記憶があります。印象ということでいえば、今でこそよくしゃべっている三池君ですけど、昔はかなり無口だったんじゃないかな。佛田くんも、あんまり前に出てきて喋る方ではなかったと思います。

三池高校までは全然人と話せなかった。クラスの代表とか決めるとなると、逃げ回るタイプでした。ですから恋愛も、からきし。もちろん憧れはありましたけど、全然ダメでしたね。美術部は多分全員ダメだったはずです(笑)。やっぱり中学高校って、スポーツマンで頭もいい、そういうヤツがもてるし。僕らは、そういうヤツがなんかデートしたらしいというウワサを聞いて、「あ〜やっぱりね」とかいって、隅の方でひねくれているグループでした。(笑)

佛田確かに(笑)。あの頃は僕も、女の子としゃべったって記憶すらないです。

お二人は中学の2,3年で同じクラスになったそうですが……

佛田はい。しかも家が同じ方向だったので、三池くんは学校帰りによくウチに遊びに来ていました。

三池そう、ちょくちょく夕飯までご馳走になってました(笑)。二人で何やってたかっていえば、そうだな……プラモデルを作って遊んでました。で、作ったプラモデルの中に玩具の爆竹を入れて、一気に爆破させちゃう。まさに特撮もどき(笑)。二人でそういうことをするのが楽しかったんです。

佛田趣味が同じなんですよ。しょっちゅう一緒にくだらないことを話していました。2人でモノマネをして、それをカセットテープに吹き込んで、それを自分たちで聞いては爆笑したりして。先日実家に帰ったら、たまたまそのテープが見つかって、ホントくだらないことをやっていたなぁ、感慨深かったです(笑)。

三池カセットテープに録音してたのは、自作自演の効果音にはまっていたからかもしれないね。

佛田そうそう。戦車が走る音と称してブルドーザーの音を録ったり。(笑)

三池他にも何人かいたんです。特撮番組やヒーロー番組が大好きな仲間が。町野健輔くん、北野孝一くんとか、海津裕一くんとか。この中では、海津くんが抜群に絵が上手かった。海津くんの親が学校の先生で、佛田くんもうちもそう。境遇が似ていたというのも、話が合う要因だったかもしれませんね。あと、佛田くんとはやっぱり帰り道が一緒、というのも大きかったです。

休日や時間がある時は何をしていますか?

佛田映画を見るくらいですかね。特撮以外の映画をできるだけ探し出して名画座とかに行きますね。そっちの方がたまに新しい発見がありますね。最近印象的だったのは、昔の東映の時代劇で中村錦之助が出ている「宮本武蔵」。宮本武蔵が何百人という敵と田んぼで戦うシーンがあるんですが、それが実は全部セットらしい。畦道はコンクリートで作って、上から泥をかぶせて畦道に見せたり、傍らにあるでっかい松もどこかから持ってきて植えたりしたというんです。それを聞いて、「昔の映画はお金がかかっているなぁ」と思う一方、そういう手法もなかなかいいなぁと。何もないゼロから作るというところに、妙に感心しました。

熊本には帰っていますか?

三池最近は九州でも特撮のイベントが開催されることがあるので、帰る機会は増えています。特に、3年前に親父が亡くなってからは、帰る頻度が増えています。20代の頃は年に1回帰れば良い方。皆に反対されて東京に出てきただけに、仕事で何の成果を出していないのに、帰る気がしなかったんですよ。親や友達に合わす顔がないというか。

佛田たまに帰ります。僕は帰省した時には同級生とも会うんですけど、熊本の同窓会は何回かしか行ったことがない。自分達が幹事の年くらいかな。それも「講演をする」という理由があったから行ったくらいです。

東京同窓会には出られているのですか?

佛田三池1回目から出ています。

佛田同窓会に行けば、懐かしい人と会えて飲めますから、楽しいことは確かなんです。

三池でもね。駆け出しの頃は忙しくて、特にこの世界は土日とか関係ないですから、「1ヶ月後のこの日に」っていう約束は、なかなかできなかった。まぁ貧乏で出たくても出られなかったという面もありますけど(笑)。
そんなこんなで実際は40代まで、同窓会には全然行けなかった。それが、数年前に大病をして、寿命を意識したというか。やっぱり生きているうちに昔の仲間に会うというのはいいなと思った。この先何度会えるかわからない人もいますから。だから最近は、できるだけ同窓会には出るようにしています。みんなそれぞれ違う道を歩いていて、今いる環境や境遇もそれぞれじゃないですか。そうすると、現在の仲間や同業の人からは聞けないような話も聞けるなぁと。ま、こっちのほうが変わり種かもしれないけど(笑)。そんなところが面白いなと思っています。

同窓生へのメッセージをお願いします。

佛田僕の作品のせいで、次々おもちゃを買わされているお父さん、おじいちゃんがたくさんいるかと思いますが、すみません(笑)。ご迷惑をおかけしています、といいたいです。そんな皆さんのお子様のおかげで、僕は食わせてもらっています(笑)。

三池先ほども話しましたが、「特撮博物館」を熊本市現代美術館で開催していただいて、あらためて熊本の良さを再認識しました。地元の関係者の方々にも、すごく良くしてもらって。こんなに特撮好きな人がいたのかと、しみじみ思いました。高校を出て進路を決める時には、すごく孤独感があった。映画業界は自分とはかけ離れた業界という感じだったし、応援してくれる人も味方もいなかったから、故郷と仕事が一直線に結ばれている感覚は皆無でした。それが今回の「特撮博物館」で、つながったというか「ここにも仲間がいたんだ」と実感できて、すごく嬉しかったんです。

 

現役附中生へのアドバイスをお願いします。

佛田僕たち二人を見てもらうとわかるけど、人生はどうなるかわかりません! だからこそ、本当に興味のあることがあるのなら、それにつながる夢は捨てないでください。

三池なによりまず、やりたいこと好きなことを早く見つけること。そして、自分で自分の限界を決めず、大きな志、大きな野望を持って、何事にも臨んでほしいと思います。

公開日:2015.10.21

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