岩津昭夫インタビュー

様々な業界で活躍されている熊大附属中学出身者をご紹介していくコーナー! 第7回目は卒業生ではなく初の先生インタビューです。S48年より音楽の教師として長年コーラス部にご尽力されました岩津昭夫先生。熊大附中生の音楽の強さの秘密、混声4部合唱の校歌、卒業式恒例の「ハレルヤ」の始まりについて貴重なお話を伺いました。

岩津昭夫(いわつあきお)

1936年東京都葛飾区青戸生まれ。両親の出身地である熊本に移り住み、白坪小、九州学院中、九州学院高を卒業後、1957年熊本短期大学卒業と同時に教職に就く。学校での指導と並行し武蔵野音楽大学で聴講生として音楽教育の研鑽をつみ、小国中を皮切りに城西中、江原中、熊大附中、城南中、東町中、熊本市教育委員会に在職。1973年から1987年までの熊大附中在籍期間中、全国学校音楽コンクール(Nコン)全国大会に9回出場し、うち7回入賞。その後も非常勤講師として1997年から2002年まで附属中で指導のサポートにあたる。2013年より附属中評議員。現在は、おかあさんコーラスなどの合唱指導のかたわら、合唱・器楽を問わず、コンクールの演奏を聴きに全国各地を訪ねている。

なぜ、熊大附属中学校の卒業式でハレルヤコーラスを歌うようになったのでしょうか?「ミッション系でない国立大学の附属中学校なのになぜメサイア?」と思っている人もいますし、ハレルヤコーラスを経験されていない先輩方もいらっしゃいますので、その背景を教えて下さい。

岩津いつから歌われるようになったかは定かではありませんが、同窓会会長の八戸和男氏(S38卒)によりますと「自分たちは歌っていない。昭和46年ぐらいからではなかろうか?」とのことです。 「中学生でも努力すれば歌える名曲であり、素晴らしいコーラスができるのではないか」という渡邉至先生の発案で、卒業式の最後を飾る「卒業生合唱」として歌われ、附中の伝統として歌い継がれています。合唱曲と言えば、ベートーヴェンの「交響曲第9番ニ短調op.125」が最高の曲ですけどね。次が、ヘンデルのオラトリオ「メサイア」第2部にある「ハレルヤ・コーラス」ではないかと思います。ヘブライ語でハレルヤ、ラテン語でアレルヤ。ハレルヤは「神をほめ讃えよ」という意味で、歓喜と神への賛美を表現していますが、精神的にも合唱的にもとても素晴らしい作品ですので、宗教的なことではなく、合唱音楽としての素晴らしさを、附中生に体験させたいとの願いが込められていると思います。そして、高い声をうまく出すことができれば、だいたい歌えます。 さらに、先ほど最高の曲と言った「交響曲第9番ニ短調op.125」ですが、実は、これも、卒業生と在校生で歌ったことがあります。熊本県立劇場での同窓会創立記念演奏会でした。在校生は、コーラス部と3年生全員。そのとき「第9は無理でしょ」って思いましたが、その時の3年生に「卒業生と歌うか?」と聞いてみたら「歌う!」って言うじゃないですか。やらせてみると、彼らはドイツ語でどんどん覚えていってね。びっくりしました。 その時のコーラス部がNHK合唱コンクールで一番良い成績をもらいました。「第9のおかげ」と思っています。昭和60年度と61年度の卒業生が第9の演奏会をドイツ語で歌っています。ハレルヤよりももっと上の歌を歌っているんです。

とすると、コーラス部のレベルとして最高だと思うのは、この第9を歌った学年ですか?

岩津結果としてはそうなりますけれどもね。コーラス部の本格的な活躍は、部員だけでコンクールに出るようになった昭和52年からだと思っています。48年から51年までは、コーラス部員が少なかったので、体育系クラブの男子などに応援を求めて、コンクールに出てもらっていました。60年(この年から金・銀・銅の表彰になり金賞=全国1位を受賞)61年(銀賞=全国2位)と良い結果を出しましたが、いわゆる「全国クラス」になってきたのは54年(全国大会に出場し4位だったそうです)からではないかと思います。55年(全国2位)と56年(全国3位)は、男女共、声がそろってきました。金賞を受賞した60年は、男子は良かったけれども女子はちょっと若かった。翌年の61年は、女子が良くなって男子がちょっと悪かった。男女そろうというのはなかなか難しいなと思いました。 目標の声に近づいたのではと思えるのは、男声が55年、56年、60年、女声は55年、56年、61年だったと思います。

附中では、クラス対抗での校内合唱コンクールも行われていましたが、これはどういういきさつで始まったのでしょうか?

岩津「校内合唱コンクール」は、京陵中学校で音楽を教えていた荒川弘先生の発案だと聞いています。渡邉先生が附中にいらっしゃったとき、仲の良かった荒川先生が校内合唱コンクールを始められたと聞いて「じゃあ、わしもする!」と取り入れられたようです。そして、熊本市内の中学校に広がり、今は、市内の中学校全てで行われています。郡部でも盛んに行われていますよ。 校内合唱コンクールを行う理由は、全員参加なので、学級がよくまとまるからです。担任の先生に言わせると「合唱コンクールが一番クラスがまとまるけん、良かもんな」ということになります。当時、数学の山下一郎先生が合唱コンクールに一生懸命になっておられました。担任が一生懸命になると、良い結果を残しますね。

ご指導の中で、一番苦労されたのはどのような点でしょうか?

岩津元々、附中生は、音楽的な能力と感覚に恵まれています。音楽性豊かな生徒が多いので、音楽の指導で特別に苦労したという記憶はありません。ただ、努力したのは「1年生」のときに「音楽大好き人間」に育てることでした。まず、音楽を「聴くこと」から始め「歌ってみたい」「弾いてみたい」「吹いてみたい」「作ってみたい」といった願望を、1学期から2学期にかけて大事に育てていくことに努めました。「1年生が別れ道」です。1年生は大事にしていました。その中で最も力を入れたのが「声づくり」です。どういう声を作るかですね。 そして「学級での合唱」が「コーラス部の声」につながっていきます。他校の先生たちから「コーラス部にばっかり一生懸命で、音楽の授業はあんまりしなはらんとだろ?」ってよく言われますが、これは逆ですね。授業でまずクラスの合唱が出来上がって、そこで興味・関心を持った人たちが、コーラス部でもさらに一生懸命に歌う。そういう循環。そんな風に目指していました。

校歌も、女声だけの部分があったり、最後は混声4部になったりと、きわめて珍しいかと思いますが、この経緯もご存知でしたら教えてください。

岩津混声4部合唱の校歌は、附中以外にはないでしょうね。大格進先生作曲で、渡邉至先生編曲ですが、作詞は生徒会の公募でした。歌詞は皆さんの先輩が作ったんです。歌詞も良ければ、旋律も編曲も見事で、最高の作品だと思います。附中生のコーラスが上手である大きな理由の一つが校歌だと思います。校歌を歌うことによって、合唱の基礎ができるのです。 特に最初の4小節「阿〜蘇の山〜並〜み」は、女声と男声が声を合わせて同じ旋律で歌うユニゾン、つまり斉唱で歌い出します。そして、その次の2段目が、女性だけで歌う女声2部合唱になります。その次の3段目は、混声2部合唱で男声がメロディを受け持ち、4段目は混声3部合唱になって、やっぱり男声がメロディを受け持ちます。男声が活躍できる場面があるから男子も喜んで歌うわけです。5段目になったら混声4部合唱で、そこで初めてソプラノがメロディを受け持ちます。最後の4小節がとてもよく出来ていて、前半はもう1度全員で斉唱、後半が混声4部合唱で力強く堂々と歌います。 校歌は、最初、合唱ではなく、斉唱でした。それを「校歌を歌うことによって合唱の基礎がしっかりとできるように」と、渡邉先生が編曲されたのです。これはすごいことだと思います。しかし、渡邉先生は、編曲したことを一言もおっしゃらなかった。僕も長く知りませんでした。誰かが言って、やっと「渡邉至 編曲」と出ましたが、僕が附中に来て後半まで、渡邉先生は名前を出されませんでした。最近は名前を出したがる人が多いですが、奥ゆかしいですね。

音楽全般の話になりますが、定期テストで、名曲を流して曲名を答えさせる問題を出されていました。この形式はどのように生まれたのでしょうか?

岩津この形式は僕が考えました。世界の名曲って数え切れないほどたくさんありますよね。その中から、中学生が聴いても楽しめる曲を140曲集めて、3年間、授業で毎回聴かせました。「1曲でも気に入った曲が見つかればそれでいい」という狙いでした。そして「どれくらいの曲を知るものだろうか」と思い、テストに出してみたのです。思いもよらない人が全曲正解ということもありましたね。しかも、ベートーヴェンを「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」と、フルネームで書くものだから、びっくりします。このように、興味が広がってくれるのがうれしいですね。皆さんが、将来、世界に羽ばたいていくときに「名曲の中のひとつでも知っていれば、何かの役に立つかも」という思いでした。 熊本地震があった時に、現在ドイツ在住の昭和51年卒の男性から電話がきました。ドイツで合唱をしているということでしたが「中学時代にテストのために名曲を聴いたことが歌の世界に入るきっかけだった」と聞いて驚きました。その彼がいたクラス、3年4組の授業が、僕が今までに授業をした中で、一番感動的でした。「フィンランディア」(シベリウス)の「鳥肌が立つ」混声合唱のハーモニーを今でも覚えています。その年以降も上手な合唱はありましたが、鳥肌が立つようなものはなかったと思います。

岩津先生が1番好きな合唱曲は何ですか?

岩津校内合唱コンクールの課題曲はすべて素晴らしいと思っていますが、やはり、先ほど話した、昭和50年に3年4組が歌った「フィンランディア」ですね。スメタナの「モルダウ」モーツァルトの「グローリア」なども良いですね。今の附中生は、この2曲を原語で歌っていますよ。ベートーヴェンの「自然における神の栄光」ハイドンの「天は御神の栄光を語り」も良いですね。また、NHK全国学校音楽コンクールで歌った課題曲と自由曲にも印象に残る曲が多いです。課題曲では、49年「青空のすみっこ」51年「水芭蕉」52年「レモン色の霧よ」53年「歌がうまれる」54年「時は流れても」55年「きみは鳥・きみは花」56年「うつくしい鐘が・・・」60年「ミスター・モーニング」61年「風よ鳥よ」などです。自由曲では、49年「みずぐるま」50年「森の見える家に住みたい」51年「おじいさんの家」53年「野生の馬」54年「石仏」55年「一羽の鳥」56年「若ものたちは」57年「山の輝き」58年「空駆ける天馬」59年「寒馬よ雪原に噺け」60年「流れゆく川」61年「実りへの決意」などです。 今は、シューマンの「流浪の民」が3年生の課題曲です。ソプラノ、アルト、テノール、バスの、4人の独唱がありますが、希望する人が多くて競争が激しいそうです。そして、皆、見事に独唱します。独唱を始めたのは、僕が平成9年から5年間講師をしていたときです。夏野先生と相談し、定着していきました。それで、独唱できる子が多くなったのですが、今考えてみると、以前も、独唱できる子はいっぱいいましたよね。いたけどしなかったのは、ちょっと怖かったからです。校内合唱コンクールで独唱を取り入れると、ひょっとしたら、その子が失敗したり、音程が下がったりするかもしれません。「何かあったら、その子が責任を感じるのでは。それは可哀想だ」と思い、当時は取り入れませんでした。 当時「クラス」でNHKコンクールに出ても予選通過できるくらいの力がありました。でも、「熊日コンクール」には1度も出たことがありません。なぜかというと、3年生がコーラス部を引退して、2年と1年だけになると、力不足になるから申し訳ないと思ったからです。今考えてみると、2年、1年のみで出ていても大丈夫だったのではないかと思います。

「混声」にもこだわっておられたようですね。

岩津公立、国立の中学校は、男子と女子によって学校が出来ていますから、混声にするのは自然な形です。そして、混声にしたほうが厚みが出るし、男子がいると、カンフル剤となって、クラスやコーラス部の雰囲気がとても良くなり和みますよね。

最近は、受験の影響で、難しいようですね。

岩津平成13年に、コーラス部員が20数人まで減りました。なぜかというと、その前の年に全国1位になり文部大臣奨励賞を受賞したのですが、その年の3年生が第1希望の高校になかなか受からず、受験にことごとく失敗してしまいました。それで保護者の方々がショックを受けて「コーラス部に入ったら勉強できない」ということになってしまったのです。今年は少し持ち直したようですが。

中学生にとっての「コーラス」の意義や教育的効果について、どう思われますか?  

岩津コーラスの基本は「声をそろえること」です。そしてそれは、心がそろっていないといけませんから「声と心をそろえること」から始まることになります。校内合唱コンクールの練習を通して、クラスが一体化するでしょ。それが全校に波及して学校全体がまとまり、良い影響を与えるようになると思っています。このコンクールを通じて、生徒に自主性と協調性が育ちます。そして「やったー!」という満足感と自信がつきます。こういう行事は、やはり良いと思います。

歌のテストは、生徒ひとりひとりが「全員の前」で歌うスタイルでした。これにも何かお考えがあったのでしょうか?

岩津堂々と自分の考えを言える人を育てたいという考えからです。人前で歌うのは、最初はドキドキハラハラしますが、何回か繰り返すうちに落ち着いてできるようになります。その経験を通して、自分の考えを堂々と発表できる度胸をつけてほしいという願いです。ですから、歌そのものの上手下手という優劣よりも「歌う時の態度、一生懸命かどうか」を見ていました。そして、もうひとつ、歌唱テストを見ている周りの人に、その友だちの良さをできるだけ発見してもらいたいという理由もありました。例えば、A君が1人で歌っているとして、周りにいるB君、C君に、A君の姿を見て、何かを感じ取ってほしい、良い点を見つけてほしかったのです。 僕が今までに一番ショックを受けたことですが、音楽室に入ろうとしない男子がいました。「君は音楽が嫌いだろう?」と質問したら「はい。小学校の先生から音痴と言われたから大嫌いです。だから音楽室に入るのも嫌です」と言っていました。でも、その生徒も、嫌々ながら音楽室に入るようになり、最後の3年生を卒業する前のテストの時には、ちゃんと歌ってくれました。そしたら、周りから拍手があがったんですよ。温かい拍手でした。その子も一生懸命に歌っていました。拍手を受けて、にっこりと笑ったのが今でも印象に残っています。このクラスの仲間は、絶対にその子をいじめたり、バカにしたりしませんでした。仲間に温かく見守られながら、彼は成長していきました。僕はそういう場面をいくつも見ています。附中の生徒はすごいと思います。

今、一番の楽しみはどんなことでしょうか?

岩津一番の楽しみは九州と全国の合唱コンクールを聴きに開催地へ行くことですが、もうひとつの楽しみは、新聞のスクラップです。教え子の皆さんが新聞によく載るので、翌日に記事を切り抜いて大学ノートに貼っています。ノートは51冊目に入りました。附中のいろんな卒業生の記事を貼るのが楽しみですね。その中で1番の記事は、やっぱり「くまモン」の成尾君でしょうね。

一番好きな作曲家、楽曲、演奏家を教えてください。

岩津作曲家も楽曲も演奏家もたくさんいます。作曲家では、ベートーヴェン、シューベルト、ショパン、チャイコフスキー、ドヴォルザーク、プッチーニなど。楽曲では、小曲にはじまり、序曲、ピアノ曲、ヴァイオリン曲、交響曲などなど。指揮者では、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、カール・ベーム、エウゲニ・ムラヴィンスキーなど。声楽家では、マリア・カラス(S)「カルメン」、ジェシー・ノーマン(S)「魔王」、木村宏子(附中→第一高校・Ms)「君よ知るや南の国」、フェッルッチョ・タリアヴィーニ(T)「ナポリ民謡」、ディートリヒ・フィッシャー・ディースカウ(Br)「魔王」。ピアニストでは、アンドレ・ワッツのリスト「ラ・カンパネラ」は名演です。ヴァイオリニストでは、アルテュール・グリュオミオー「タイスの瞑想曲」、ヘンリック・シェリング「G線上のアリア」、イツアーク・パールマンのメンデルスゾーンとチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」などは絶品です。このように名前をあげたらキリがありません。

最近よく聞かれている音楽はどのような音楽でしょうか?

岩津童謡・唱歌と合唱曲が多いですね。公民館で、5年間、お年寄りを対象にした童謡唱歌教室を開いていたときに学んだことがあります。それは、ご高齢の方々が童謡唱歌を小・中学生よりも大きな声で一生懸命に歌われることでした。「蛍の光」や「ふるさと」などを感動して涙を流しながら歌われる。昔は、文部省唱歌を歌うことによって、日本の自然の美しさや人と人のおつきあいの良さなど、いろんなことを、先生が説明しなくても学んだのですね。そして、子どもたちの歌である童謡を歌うと、当時の情景が目に浮かびます。また、驚いたのが「軍歌」です。軍歌というと、おじいちゃんだろうと思うかもしれないけれども、実は「軍歌はおばあちゃんたちのためのもの」です。女性は、軍歌を歌いながら、自分の夫、息子を戦地に送りました。おばあちゃんたちにとって「軍歌は実に悲しい歌」なのです。当初は、軍歌は必要ないと思っていたけれども、今、若い学生に「こういうのもありますよ」と伝えています。今、あらゆるジャンルの曲を紹介しています。幅が広くなりました。 僕は、附中にいるとき、当時はやった歌謡曲や評判になったテレビドラマを全く知りませんでした。帰宅後は、その日に録音したコーラス部の歌をすぐに聞いていました。その繰り返しです。テレビをみる暇はありませんでした。きっと「附中人生」だったのですね。ただし「巨人の試合」だけは、ちゃんと耳に入っていました(笑)。 附中の生徒は、今日したことが明日に生きています。コンクールでも、予選で、1日目より2日目、2日目より3日目と、徐々に上がり、本選直前にぐわーっと上がっていました。そこが附中生のすごいところです。 今までの録音は今でも大事に保管しています。そして、僕が附中を去る直前の時まで、部長さんに必ず「昭和〇〇年〇月〇日〇時に録音を始めます」と言ってもらってから録音を開始していました。そうしないと、どの学年の録音かわからなくなるからです。当時の音楽室には、今のように冷房もなく、窓を閉め切っていたので、とても暑かったですね。汗びっしょりになって歌っていました。録音が終わると、いっぺんに窓を開けましたね。

附中全体で最も印象に残っていることは何でしょうか?

岩津附中の良さは、もちろん「生徒たちが優秀で、先生たちも素晴らしい」とことです。生徒諸君は、体育大会、クラスマッチ、文化週間、合唱コンクールなど、すべての行事に真面目に真剣に取り組みますし、ひとりひとりが個性的で、目標を持って努力していく集団でした。 先生たちも、真剣に議論し、目標の授業づくりに取り組んでいて、互いに何でも言える仲の良い教師集団でした。当時、毎週火曜日の午後に研究発表会がありましたが、色んな意見が出て、よく議論になりました。例えば、A先生の出す意見に対して、賛成の人もいれば、反対の人もいる。質問する人もいる。真剣な討議です。だいぶ言い合いもしましたよ。だけど仲は良いのです。 生徒同士も仲が良い。先生同士も仲が良い。保護者の方々も温かい。附属中学校は、全体が良いのです。どこかひとつでも欠けたらダメだと思います。 だから、僕が今まで勤めた学校の中で、附中が一番楽しかったし、充実していました。それぞれの先生から学ぶことがいっぱいありました。例えば、美術の高崎先生からは色々なことを学びましたよ。 美術室の前を通ると、今は特撮監督をしている佛田君や三池君が、放課後、ずっと残って一生懸命に絵を書いていたのを覚えています。そういう個性的な子どもたちがいっぱいいました。運動場で遅くまでテニスのラケットを振っていた子もいたし、剣道をしていた子もいた。そして、文章を書いていた子も。それぞれがそれぞれの道で一生懸命でした。それが附中の面白さです。僕は教育委員会に4年間いましたが、附中の卒業生で小学校の先生をしている人たちも優秀です。先輩の先生たちから「あの先生は良かもんなぁ。しっかり頑張りなはるもんね」と褒められる人が多いです。それが一番うれしい。僕にとって附中の卒業生は誇りです。「附中は、最高の場所、理想的な教育現場だった」と思います。 ただ、国立中学校は予算があまりありません。今回の熊本地震でも「被害にあった古い体育館やプールを修繕するのが大変だった」と聞いています。当時も、国立中学校は、経済的には色々苦労していました。そんな中でも、生徒たちは頑張っていましたね。

もし、生まれ変わるとしたら、今度は何をやりますか?

岩津できれば、もう一度「熊大附属中の音楽教師」をしたいです。そして、やれなかったことをシッカリとやりたい。例えば、全国コンクールでの「連覇」を。

熊本では、今でもハレルヤコーラスの練習会があると伺っています。卒業生との練習はいかがですか?

岩津年に1度の機会で、この前は40数名集まりました。僕が最も感心するのが、卒業生の皆さんがハレルヤをすぐに合唱できる「記憶力」です。昔の中学生時代に戻り、声も明るく若々しく、自分のパートもしっかりと覚えていることに驚きます。そして、中学生のときよりも大人の声になっているので、ソプラノもアルトもテノールもバスも、とても良いです。この前は、コーラス部員ではなかったテノールが3人も来ました。とても生き生きしていましたね。バスは八戸会長を先頭にたくさんいるけれども、テノールはいつもいないんです。アルトは歴代部長がずらーっと参加しているので厚みがすごい。ソプラノは綺麗な声で歌ってくれます。バランスも良いので楽しみです。練習会は今年で6回目を数えますが、大同窓会のオープニングに歌う「モルダウ」と「ハレルヤ」そして最後はやはり「校歌」で締めくくります。合唱を卒業生と楽しんでいます。

附中でのかつての教え子たちも、上は60歳前後の年齢となりました。半世紀近い時を経て、今、どのような言葉をかけられますか?

岩津社会の中心として活躍している皆さんですから「さすが!」「良く頑張ったな!」「凄いね!」といった言葉でしょうか。僕にとって附中の卒業生は大きな誇りです。 この前、僕が附中に来た年の昭和49年に卒業した人たちが、もうすぐ還暦ということで集まりました。この集まりには参加していませんでしたが、その年の卒業生の中には、現在声楽家として活躍している佐々木典子さんがいます。この学年の子たちは、本当にしっかりしていました。すごいと思っていました。その子たちが集まって、色々対話をしました。そしたら、最後に、パッと校歌を合唱し始めたのです。それがすごかった。集まった人の中には、大学の先生や国家公務員の偉い人やもちろん医師も何人もいます。「さすが!凄いね」という人たちが多かったですね。皆さん、よく活躍されていると思います。

最後に現役の附中生へのメッセージをお願いします。

岩津「先輩を見習って、目標を持って着実な努力を!」と言いたいですね。これを言えるのが附中。最高の学校です。附中で学べることは幸せなことだと思います。こんなに良い学校はありません。この前、附中の授業参観に行きましたが、生徒たちは、男子も女子も「こんなに一生懸命に勉強していたかな」と思うくらい頑張っています。しっかりとした考えを持ち、前向きに努力していると思います。美術の授業でも、お互いに話し合い、協力しながら、良い作品ができるように頑張っていました。ああいうのは、和やかでいいですね。英語の授業も楽しかったです。

公開日:2017.11.12

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