八重野充弘インタビュー

様々な業界で活躍されている熊大附属中学出身者を紹介していくコーナー! 第8回目は、東京同窓会の発起人のひとりでもある八重野充弘さん(S38年卒)です。作家兼トレジャーハンターとしてメディアでもひっぱりだこの八重野さんの中学時代の大切な思い出をはじめ、トレジャーハンターとなったきっかけや日本各地での冒険談、今後のお宝発掘の可能性など楽しいお話をうかがいました。

作家、トレジャーハンター

八重野充弘(やえのみつひろ)

1947(昭和22)年、熊本市生まれ。熊大附小、熊大附中、熊本高校を経て、立教大学社会学部社会学科卒業。1970年、(株)学習研究社入社、おもに小学生向けの学習雑誌の編集に携わる。1983年より(株)くもん出版に勤務し、小中学生向けの科学雑誌の編集を担当する。1992年、同社を退職して作家、科学ジャーナリストとして独立する。学研時代の1974年に、天草四郎の財宝伝説を取材、雑誌に取り上げたのがきっかけで、熊本県天草下島での財宝探しを開始。その経緯をまとめた『三角池探検記…天草四郎軍の遺宝を求めて』で、1977年に日本旅行記賞(日本交通公社刊・雑誌「旅」主催)を受賞。以後、執筆活動やテレビ番組の企画も行うようになる。1978年、全国の同好の士を組織して日本トレジャーハンティング・クラブを結成、現在まで代表世話人をつとめる。これまで、各地の埋蔵金伝説の調査のために30数カ所を歩き、実際に発掘を行った場所も10カ所以上にのぼる。2018年8月現在、まだ成果はなし。著書は『埋蔵金発見! 解き明かされた黄金伝説』『埋蔵金伝説を歩く ボクはトレジャーハンター』『謎解き・徳川埋蔵金伝説』『日本の埋蔵金100話』など。日本推理作家協会、日本旅行作家協会(理事・事務局長)に所属。

フリーライター兼翻訳家

山縣 みどり(やまがたみどり)

昭和55年度卒業生。大学卒業後、出版社に勤務。退職後はカリフォルニアの大学で映画学を学び、帰国後にフリーライター兼翻訳家としての活動をスタート。「anan」「ELLE」「GQ」「Brutus」「25ans」などでインタビューや映画批評を執筆するほか、記事の翻訳も手がける。著作に「恋と幸せのヒントがたくさんつまった 恋愛STYLEBOOK」(宝島社)など。

山縣八重野先輩は、東京同窓会の発起人のお一人と伺っています。きっかけは何だったのですか?

八重野きっかけはね、僕の7年先輩たちの同窓会です。僕の姉の代でして、その先輩たちから、「附中もやろうよ!」との声が上がったんです。アサヒビールの役員の方がいるから浅草のアサヒビールのビルを無料で借りられるから会場は大丈夫、なんて話が色々あったんです。だけど実際に動く人がいない。組織化に当たっては実働部隊が必要でしょう? そこで堤清君(昭和47年卒)が自ら「やる!」と言い出した。  確か、組織を作る前年だったと思うんだけど、JX日鉱日石エネルギーという会社の社長に就任したばかりの木村康君(昭和38年卒:現東京同窓会会長)が江原会に出席していて、僕が当時りそな銀行の会長だった細谷英二先輩(昭和35年卒)に引き合わせたんです。その場に居合わせた堤君も合わせて、4人全員が附中出身だったので、「附中もやりましょう!」ということになったんです。

山縣八重野先輩は、どんな中学生だったんですか? 成績はいい方?

八重野いい方だったと思います。思い起こすと、いろいろな友だちがいて、彼らから影響を受けましたね。飛びぬけて運動神経がいい奴はすごく足が速くて、運動会ではいつもスターだった。ものすごく本読む奴もいたし、時事問題に非常に詳しくて何でも解説してくれる奴もいた。  僕にとっての大きな出来事だったのは、NHK熊本放送局の子供放送劇団に入っていた二人のクラスメイトに誘われたこと。僕も参加して、月に2回くらい、土曜日の午後に本物のNHKアナウンサーからしゃべり方や発音といった細かい指導を受けていました。当時はまだテレビではなくて、ラジオ放送です。その番組のひとつに出演することになったんです。しかも僕は生意気にも、週一のレギュラー番組をもらうことに! 学校の国語の授業向けだったと思うけど、詩を朗読したりする番組に出演していました。

山縣それじゃあ当時の夢は、アナウンサーとか?

八重野じゃなかったですね。今だったら児童福祉法違反だけど、レギュラー番組が終わった後に収録する放送劇にも出演していました。子役が必要だっていうので、夜の12時位までスタジオに残ってね。ただし帰りは、家まで外車で送ってくれていました。

山縣アウトですね。NHK、ブラック企業でしたね、当時は(笑)

八重野放送の世界というのを体験し、それこそ後に東京のNHKで再会するような人と接したりもしました。でも中学時代のいちばん大きな思い出は、2年の終わりに、沖縄に行ったことです。

沖縄訪問緑の使節:港に到着後、歓迎を受けているところ。中央の大きい中学生が八重野氏。

山縣パスポート必要ですよね?

八重野もちろん必要です。戦後初めて沖縄に行き、焼け野原になっている姿を見てショックを受けた熊日の社長さんがね、元の緑豊かな沖縄に何とか戻せないだろうかと考えて、緑化のための募金運動をやったんです。全国から集まった250万円もの募金を子供の使節団に託そうということで、熊本県下の子供を対象にした作文コンクールが行われたんです。テーマは“緑化”や“私と緑”といったものでしたね。僕たちのクラスも担任の「全員書け」の一言で、この作文に取り組むことになりました。テーマが決められているから、何書いていいかわかんないクラスメイトも多かったんじゃないかな。でも僕はその時、まだ小学校に入る前の昭和28年に起きた大水害のことがぱっと頭に浮かびました。6・26水害って、今でも熊本市の歴史に残る大水害が。白川が氾濫して、今の下通りや上通り辺りが全部水没して数百人の死者が出たんです。水死体もいっぱい見たし、もうショッキングな出来事でした。水害の原因が実は、戦争中に阿蘇の山々の木を伐り出したからだということを聞かされて、それがずっと僕の記憶にあったんです。それを思い出し、木を大事にすることは防災につながるという主題の作文を書きました。  その結果、使節団のメンバーに選ばれたのが2年生の終わりです。昭和37年の3月。すぐにパスポートを取得して、お小遣い3600円(10ドル)持って、沖縄に行きました。使節団メンバーは8人で、もちろん団長さんは熊日の偉い人。RKKのカメラマンをはじめとする取材陣も同行したから、総勢24人くらいかな。当時は新聞にもデカデカと記事が載るし、テレビでも放送されたりして話題にもなったんです。僕らは琉球政府に寄付金を渡すだけじゃなく、連日なんらかの歓迎会にも出席していました。初日の食事会で、生まれて初めてコカ・コーラというものを飲みました。「何だろう、これは?」って口にすると、最初はもう薬みたいな味にびっくり仰天。でも2回目、3回目になるとね、だんだん慣れてきて、おいしく感じられたの。で、お土産に買って帰ったのが、ネスカフェのインスタントコーヒー。これも珍しいものでした。  それとね、地元の子供たちとの座談会を地元新聞社がやってくれました。沖縄の子は英語を話すと思い込んでいたけど、僕たちよりも上手な標準語でしたね(笑)。その座談会で一緒になった人と、その後文通したりしてね。いい交流がしばらく続きました。しかも、それだけで終わらなかったんです。  10年たって、当時の僕は学研という会社で学年別の学習雑誌『4年の学習』を担当していました。そのときに、ふと思ったんです。4年生って、10歳だなと。沖縄訪問から10年経っていて、あの年に生まれた子がちょうど読者です。僕らが持って行った募金はいったいどうなったんだろう、という思いも浮かびました。ちょうどその年が沖縄がアメリカから返還された年で、沖縄県庁ができていました。そこで県庁に連絡を取ったら、学校の校庭や道路の並木に募金が使われて、立派に木が育っていますよと教えられました。

山縣沖縄の緑化という募金の目的通りに植樹が進んでいたんですね。それを知って、ご自身の目で見たくなったのですか?

八重野記事にしようと思いました。まず沖縄県庁に行き、植樹の場所を聞いて、そこを回った。そして学校推薦してもらった地元の小学4年生たちが樹木と並ぶ写真を撮り、“僕らと育った緑のヤシ”という見出しを付けて記事にしました。話は少し戻りますが、中学の時の沖縄での体験を通して、メディアの力を感じましたね。キャンペーンで多くの人間の心を動かし、その結果集まった大金が人の役に立つ。そういう仕事をできたらいいなあと思うようになったんです。その前から文章書くことは好きでしたが。

山縣学研に就職なさったのもそれが理由ですか?

八重野いや出版社に入ったのはちょっと違います。本当は映像方面の仕事をしたかったんです。ただ僕が大学を卒業した1970年にはもう、映画産業は斜陽の一途。それにテレビ局は外注システムが進んで、テレビ局に入っても現場の仕事ができそうにない感じでした。当時の学研には映像部門があって、ムツゴロウさんとかが動物の生態映画とか社会教育映画とか撮っていたんです。テレビコマーシャルなんかも相当数、作っていました。だから、映像部門に行くつもりで就職しましたが、雑誌編集に回された(笑)。でもモノ作りという点では一緒かなと思い、しばらくは雑誌編集をやってみようと決めたんです。

山縣ここからが肝心なのですが、八重野先輩はなぜトレジャーハンターになられたのですか?

八重野それもまた、学研時代に遡ります。『4年の学習』は学習雑誌だから、勉強につながる記事が多いんです。でも僕はそれだけじゃつまらないと思って、もっと子供の興味に即した題材を選んで、取材して記事にするというのが好きでした。ネタを探していたときに「足もとにあるかもしれない宝の話」という本に行き当たったんです。徳川家の埋蔵金とか豊臣秀吉の宝、武田信玄の宝といった有名な伝説に混じって、天草四郎のお宝の伝説が書かれていたんです。「え〜っ」となりましたね。そんな話、聞いたこともなかったから。お宝伝説の大半は、それぞれの土地に言い伝えられてきた話ですが、天草はちょっと由来が違っていたんです。幕末に江戸のある大きな商家で見つかった古文書のなかに天草の残党の話があって、「残党のひとりが原城に立てこもる直前に、残った金目の物を集めて天草に戻って、三角池に沈めた」というものです。で、実際に現地にある地名などもちょっと書かれている。その伝説に興味を持ち、取材して、記事にしてみようと考えました。現地(天草)に行き、いろいろ調べ回ったけれど、めぼしい成果はありませんでした。記事はそれなりに面白く作れたし、普通はそこで終了。  ところが、たまたま高校時代の同級生のお兄さんが現地(天草)の高校の体育の先生をやっておられて、取材中もいろいろと協力してくれました。彼がお宝伝説を面白がって、僕が東京に戻った後も生徒を動員して、調べを続けていたらしいんです。それで2ヶ月くらいして電話がかかってきて、「おい、あったぞ」と言うわけ。三角池の跡地らしい場所が見つかった、と。「うそ〜」と思いながら駆けつけたところ、山が三方向からせり出した、三角形の形をした湿地帯がありました。昔は堰を作って湧き水を貯めていたけれど、堰を切ったから水が流れ出てしまった場所だという。水草はぼうぼうと生えていたそこが、「ここが三角池だ」と。「しかも脇に峠があって、街道があって、天草四郎が本渡から富岡を攻めるときにここを通っとる」という話も聞かされました。峠は通る人が休憩する場所で、ここに池があることは誰もが知っていたらしい。僕もその気になって、じゃあちょっと調べてみようとなりました。一度目は地元にいる仲間を5〜6人集めて行ったわけですよ。最初はもう、どうやるの?という感じでした。田んぼに穴を掘る作業を想像してもらえばわかると思いますが、水草を鎌で刈り取って、根っこを掘り起こして。でも、掘った先から水が入ってきちゃう。しかも、どこを探せばいいかもまったくわからない状況です。「やっぱり人目につきにくいところだろう」「池の真ん中じゃないよな」「縁の方だけど、あまり縁に近すぎず、1〜2メートルは離れたところだろう」とか自分だったらどこに隠すかを考えながら、ポイントを決めて、草を刈る。ただ土中に腕を突っ込んで探ってみても、出てくるのは石ばかり。これじゃあラチがあかないなと、2回目の探査用に金属探知機を探しました。でも、ロクな代物がなくてね(笑)。  その2度目の三角池探査のときは、高校の同級生を誘ったんだけど、そのなかにたまたま全日空の広報部で働いていた人間がいたの。彼が勤務する羽田オフィスには当時、新聞記者の溜まり場みたいな場所があったんです。僕らのお宝探しの話を聞きつけた記者たちの間で「全日空のあの人、なんか面白いことやってるらしい」と噂になって、毎日新聞のコラムに記事が掲載されたりしました。そのへんから話題になり始め、朝日新聞と夕刊フジが同行取材をしたし、夕刊フジつながりでフジテレビが取材に来たんです。モーニングショーの走りと言われる『小川宏ショー』に取り上げられたんです。

三角池探索 天草の苓北町の山中での発掘の様子。赤いTシャツを着ているのが八重野氏。

山縣全国ネットのテレビに登場するなんて、当時の天草の人にとっては一大事だったのでは?

八重野町有地なので本当は勝手に掘ったりしてはいけないんですよ。だから説明のために役場に出向くと、話を聞いた町の人は大喜び。町起こしというわけじゃないけど、話題になるでしょう。町長がダブルの背広を着て、黒塗りの公用車で現場まで来たし、警察署長もパトカーで視察にやってきました(笑)。

山縣人気の『池の水全部抜いてみました』的な盛り上がりですね。

八重野そんな感じでしたね、わいわいがやがやと。そういう意味では、宝探しや埋蔵金探しというものを楽しい雰囲気でやった初の番組だったんじゃないかと思います。それまではね、こういうことをやっている人たちのことを世間は「金掘り」とか「一発屋」とか変な目で見て、変わり者というか、胡散臭いというか。  僕はそのイメージを変えたかったんです。それにあまりにも面白いもんだから、自分たちだけの楽しみにするのはもったいないと思ったわけです。マスコミからの要望を受けて、案内していたのもそれが理由です。ただ、しばらくすると自分の口で、あるいは筆でその面白さを伝えたいという気持ちが強くなってきました。そう考えていた時にたまたま、交通公社の出版部門が出していた『旅』という雑誌が日本旅行記賞という賞をもうけて、一般人による旅のエッセイを募集していたんです。そこに宝探しの顛末記を書いてやろうと思い、「三角池探検記~天草四郎軍の遺宝を求めて」というタイトルをつけて応募したんです。それが、1977年の第3回日本旅行記賞に選ばれたんです。これが編集者という本業を離れての、物書きとしての僕のスタートとなりました。  天草だけで本当は宝探しが終わるはずだったのが、そのことを書いたことで次の展開が待っていたんですよ。

山縣その展開とは?

八重野それはね、僕が天草のことを知った本を書いた畠山清行さんとの出会いです。大正の終わりから半世紀以上にも亘って全国津々浦々を回り、拾い集めた伝説の真偽を自分で分析して、「これは!」と思う話を本に書いていた。当時の日本で埋蔵金の権威と言われていた方です。宝探しも元々は先生の著作に触発されたからだし、探査中から僕らがやっていることを逐一、報告してたんですよ。報告に対しては何の反応もなかったんですが、『旅』という雑誌に載ったエッセイを送ったところ、いきなり便箋10枚くらいの手紙が届いたんです。手紙には、僕のエッセイを読んで一発当てるのが目的じゃないことがわかって安心したというような旨が書かれていました。そして手紙をもらった直後に会社に直に電話がかかって来て、「実は、自分は全国を80数箇所以上回って、本を書いた。自分の本を読んで掘り当てた人が二人いる。ただ研究は続けて来たけれど、自分には現場での実績がない」とおっしゃるんです。

山縣70歳を過ぎてもフィールドワークに出て行きたい、というわけですか?

八重野やっぱり生涯に一度くらいは自分の手で掘り当てたいんですよ。先生から「一箇所、まだ本にも書いていない、とっておきの場所があるんだ」と協力を求められた僕は「先生、ぜひやらせてください」と飛びついたんです。この大先生がおっしゃるんだから、間違いないと思ってね。しかもターゲットはなんと、徳川の埋蔵金でした。巷でよく言われている赤城山ではなく、同じ群馬県の永井という昔の宿場跡が目的地でした。電話をいただいてから2年間の土日を使って、もう有給なんて使い果たして、探し続けましたよ。その際に、その大先生から「僕の跡継ぎは君だよ」と太鼓判を押されてしまった(笑)。結局、宝探しをやってた人はほかにもいたけど、それを文章にしたいというタイプの人は他にはいなかったんで、先生は僕に〈白羽の矢〉を立てたんですね。その後もしばらくは他の場所を先生と一緒に調査したりしました。そして僕自身もその気になって、自分で色々な伝説を調べて、分析・調査しました。全国30箇所ほどを調べまわって、実際に発掘までやったのは当時の天草やその群馬の場所を入れて全部で13箇所かな。で、いまだに何も見つかっていないというのが、オチなんですけどね(笑)。

群馬県の永井での発掘の様子。 足かけ2年をかけて謎の横穴を発見するに至るも、中はもぬけの殻!?

山縣一生かけてもこの宝は見つけたい。みたいな、お宝はありますか。徳川の埋蔵金以外に(笑)。

八重野実は今、複数の場所を同時進行で探しています。慎重に進めているのが武田信玄の軍用金で、山梨県の富士の樹海を探しています。当初、別の場所を探していたんですが、今から25年くらい前に本栖湖のほとりの土産物屋のご主人から、耳寄りな話を聞いたんです。なんでも明治の初めくらいに、村人が畑仕事の合間に樹海に入っていったら、溶岩の隙間にいっぱい開いた穴のひとつに壷に入った金貨があった。多分、一人では取り出せなかったんでしょう。村から5~6人引き連れて樹海に戻ったけど、目印も何も付けてこなかったから、壺が隠された穴がわからない。その後、村人たちが何度も探したけれど、見つからないまま今日に至っているというんです。テレビ番組のロケハン中にその話を知ったので、では武田信玄の軍用金探しをやろうということになって、視聴者を100人集めたんですよ。

山縣人海戦術ですね。

八重野そう。そのご主人が「大体この辺」とおっしゃるエリアの200m四方にロープを張った。でそれを5区画に分けて、20人ずつ5グループに分けてダァーっと調べたんです。僕は見ているだけ(笑)。ところが、目に見える穴はそのときにほとんど調べがついた。100年以上は経っているので、落ち葉で穴が塞がったり、崩れたことは予測できたし、露出して見えるところには無いだろうなというのは最初から考えていました。だから、それ以降の探索には様々な探知機を持参したんですが、一度ビーンと鳴ったことがあります。落ち葉や土を払いのけてみたら、小指の先くらいの金色のものが見えたんです。やったぁって、小躍りしましたよ。武田時代の甲州金っていうのは小判と同じ一両15グラムですが、碁石のような形をしているんです。現存するものが少ないので1枚500万円するんですよ。それを発見したと思いました。でも、取れないんです。で、周りを穿って出してみたら、折りたたみ傘の頭。紛らわしいものを捨てるなと思いました(笑)。  それに10年以上前になるけれども、フジテレビの番組で「お蔵入り」になったお宝の情報があるんですよ。茨城と栃木に跨る結城・小山あのあたりで、結城氏の埋蔵金。ほかにも戦時中に日本軍が海外から持ち込んで処分に困って隠したものが福井にあるという情報を元に探しているし、やっぱり終戦間際に、台湾経由で運び込まれた物が網走の隣にある美幌に埋められているという情報も追っています。

山縣戦時中のお宝だとGHQが絡んでそうで、謎めいていますね。

八重野そうそう、それがM資金とかにつながっていたりして、実にいかがわしい話が多いんです。いずれにしろ、トレジャーハンティングの世界には、100%何かある、確実にあるという話はひとつもありません。見つからない理由のひとつは、伝説自体がまったく根も葉もないものであること。それから、話は事実だけれども、先に誰かが取り出した可能性もある。僕も多分そうだろうという経験が2~3回ありました。もうひとつの理由は、伝説は事実だけど場所がちょっと違うということ。でも僕にとっては、あるかどうかわからないから面白いんです。もちろん、夢を現実にもしたい気持ちもあるから、そこが微妙なところかな。現場では一歩ひいた自分、第三者的自分を持つことも大事です。そうは言っても、現場ではその気にならないとつまらないですからね。

山縣会社はいつ辞められたのですか?

八重野学研には13年勤めて、36歳のときに公文の出版部に移りました。当時は「Newton」とか「Quark」とか「UTAN」という、それまでの小難しいものじゃなくてグラフィックやイラスト、写真を多用した科学雑誌の創刊ブームで、公文が「コペル21」を出すからと誘われたんです。アメリカのマーシャル宇宙飛行センターやオーストラリアのエアーズロックとか、世界中どこにでも自分で取材に行き、いい体験をさせてもらいました。編集者として一方的に情報を提供するだけじゃなく、読者からの反応を生で知りたいという気持ちもあったから、読者を対象としたツアーや講演会、科学の実験教室を主催したりもしました。  ただ僕が44歳のときに、畠山先生が亡くなられたんです。そしたら埋蔵金やお宝がらみの執筆や番組出演が僕に集中するようになりました。その1991年には徳川埋蔵金の本を書いてくれと言われ、テレビの特番が3本、雑誌でも2本連載を書いていたんですよ。学研時代は副業OKでしたが、公文はそうではなかった。それに副業が膨大な量になってきたので、これは勤めているところではないと、潮時だと思って「作家・科学ジャーナリスト」を名乗ることにしました。

山縣文系の方がお得意だとばかり思っていたのですが、中学の時から理系がお好きだったんですか?

八重野大好きでしたね。野山を駆け回っていた野生児だったから、理科の教科書に書かれていることは「こんなの教科書がなくても知ってる」ということばかりでしたね。今思えば、勉強と遊びの区別がつかない子供でした。それが長じて、仕事と遊びの区別がつかない大人になりました(笑)。

山縣素敵な人生だと思います。それでは最後にOBOG現役生へのメッセージをお願いします。

八重野今までの人生の幸せを振り返ってみると、僕が大事にしてきたのは、とにかく熱中すること。今は物書きの仕事がメインになっていますが、物を書く原動力となるのは衝動だと思います。書きたいものが溜まってくるんですよ。そのものとは多くの人との出会いや物との出会い、場所との出会いです。ひとつひとつを大事にしていくと、それらが自ずと繋がっていきます。それと見過ごしやすいチャンスを捉えることも重要です。そうすれば、細かった繋がりが一気に太くなったりもします。幸せなことに、僕の場合は今までの出会いや繋がりが大きかったんじゃないかなと思っています。もちろん。それは決して一直線上にあるものではありませんでした。  以前、高校の同窓会で作った後輩に贈る本に寄稿したのですが、それは「回り道の勧め」。失敗など怖れずにさまざまなことに挑戦してほしい。決して一直線の線だけがいいんじゃないということを書きましたね。僕自身もそうだったし。思わぬことから思わぬ人生が開けることもある。だから、回り道をした方がむしろ得かもしれません。

公開日:2018.9.13

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